わたしたちの法人は、2年前、社会福祉法人設立60周年を機に、障がい種別の枠組みを規定する「身体」を法人名から外し、また「障がい児から高齢障がい者」までの事業展開を目指すことを宣明し、令和2年4月から、肢体不自由児協会事業を引き受けることになりました。
その契機の1つ目は、障がい種別が、スペクトラム化しており、あいまいな境界をもちながら連続している実態があるからです。以前は、身体、知的、精神の3障がい区分が一般的でありましたが、発達障がい、高次脳機能障がい、難病を伴う障がいなども加わり、また、施設利用者も障がいが重複しており、種別を設けることにより、枠外に置かれてしまう方々も出てくるので、「障がい」仲間をすべて包含することにしました。
2つ目は、60年前、「わたしがどこで何をしていたのか」を振り返ったことです。当法人が「大人の障がい者」対象だけの法人になっており、年齢層の垣根を取り払い、「もっと、障がい児にも目を向けよう」と思いを新たにしたことです。
手元に、社会福祉法人日本肢体不自由児協会発行の『肢体不自由児事業の現状と課題 1966年版―手足の不自由な子どもに愛の手を』があります。そこに全国肢体不自由児施設一覧表が掲載されており、宮城県名取郡秋保町に「整肢拓桃園」(昭和30年開設)(園長:高橋孝文)と岩手県紫波郡都南村に「都南学園」(昭和32年開設)(園長:箱崎喜雄)が目に留まりました。
なぜなら、都南学園はわが母校で、62年前、わたしは、そこに入所していたからです。
今は「拓桃」も「都南」も移転し、「宮城県医療療育センター」や「岩手県立療育センター」となり、両方とも特別支援学校と病院が隣接しています。宮城は「宮城県立こども病院」(仙台市青葉区落合)、岩手は「岩手医科大学附属病院」(矢巾町)です。
東日本大震災やコロナ感染拡大で、大人よりも、子どもを守る社会通念が当たり前ですが、その根拠は「児童は危難の際には、最初に救済を受ける者でなければならない」(児童の権利に関するジュネーブ宣言、1924 年/大正13 年)にあるかも知れません。時の経過とともに、みんなが子どもから大人になりますが、「障がい児」を置き去りにしてはいけない、と思い知らされたからでした。
3つ目の契機は、昭和31年に設立された宮城県肢体不自由児協会(宮肢協)が、令和2年4月1日をもって一般財団法人を解散するという情報を聞いたからです。宮肢協とは密接な関係があり、当法人の何人もの施設長や常務理事経験者が宮肢協出身者です。宮肢協事業の重要性に鑑み、実施事業の受け皿となることができるかどうかを検討し、協議していたからです。
宮肢協は、当法人だけでなく、県内の障がい者団体や運動と深く関わっています。理事の伊藤清市氏が関心を寄せている、仙台市における「生活圏拡張運動」では、運動の成立や展開に中心的な役割を果たしたソーシャルワーカーである菅野鞠子1は、国立西多賀療養所、共生福祉会を経て、宮城県肢体不自由児協会に就職し、在宅障がい児の外出支援活動に従事しました。
昭和31年といえば、日本が国連に加盟し、前年には、骨関節結核による肢体不自由者(脊髄カリエス)専門の国立玉浦療養所(岩沼市)が開設され、5年後に、肺結核患者の医療を中心とする西多賀療養所に統合されました。(昭和35年時、患者数326名)。また、当時の近藤文雄所長による進行性筋萎縮症者(筋ジス2)の受け入れもあり、肢体不自由者を中心とした「集住」がなされました。そこから、地域社会における「生活の場」を拡張していく取り組みが始まったようです。
特筆すべきは、「日本基督教団仙台青年・学生センター」(通称、仙台ワークキャンプ3)や「仙台YMCA」というボランティア集団で、宮肢協の「きぼっこキャンプ」、第1回目は、昭和47年の「手足の不自由な子どもの療育キャンプ」ですが、初めの4回は、仙台YMCAと共催で実施されました。
障がい当事者団体や障がい支援団体の統廃合や解散は、長い歴史の中では、残念ながら、覚悟しなければならないことです。団体の存亡は、福祉制度の変遷によって、枠外に追い出されたり、中止に追い込まれたり、内容を薄められて丸め込まれたり、いつのまに骨抜きになっていたり、適正化の名に縮小させられたり、さまざまな経緯を辿っています。運動や団体の成立や展開に、実に多くの方々が関わり、時には記念誌に明記され、時には埋もれ、その多くの人が記憶の中で薄れ、忘れられていくのかも知れません。
仮に、人類の巨大なクラウド・ストレージがあるとするならば、過去の出来事がすべて刻み込まれているのだとしたら、などと空想に耽ってしまうコロナ自粛生活の日々のなかで、この文章を書いています。 (令和2.5.22)
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1 菅野氏は社会福祉法人共生福祉会の生みの親、福島禎蔵初代会⾧の「耳目兼足」であっ
た、と近藤文雄(西多賀療養所院⾧)の評、『共生福祉会三十周年記念誌』より。
2 多い時で150人の筋ジス患者が西多賀療養所に生活していた。
3 東北大学、東北学院大学、宮城学院女子大学の学生有志グループ